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My History

「英語が話せるようになりたい~」 準備期 (1990年前半~)

関東郊外で生まれ育った私は、幼い頃から「色んな世界を見てみたい」という願望がありました。短大卒業後、大手旅行会社に就職し、海外旅行の企画・添乗を扱う部署に希望通り配属されました。お客様を海外にお連れし、現地のスタッフと連携して、海外旅行を安全にかつ楽しんでいただくためにサポートするのが私の仕事でした。学ぶことも多く、やりがいを感じていましたが、それ以上にトラブルもたくさんありました。現地では、当初の予定通りにいかず、変更を余儀なくされ、その度に交渉する場面が多く、そんな時は自分の英語力のなさを痛感しました。言いたいことがあってもそれを英語で表現できない、そんなもどかしさから英語を学びたいと思うようになりました。

「留学がしたい~」 飛躍期 (~1990年後半)

「英語を学ぶためには英語圏で生活をすることが最適」と考えた私は海外留学をしたいと思いました。
でも、就職したばかりでしたので、貯金があるわけではなく、学費の負担がなくなってホッとしていた親に頼るわけにもいかず、留学なんて夢のまた夢…の状態でした。それでも、「留学をしたい!」という決意だけは固かったので、様々な情報、人脈を掘り出すために、あらゆる方面に自分の希望を伝えていました。すると、数か月後、会社の先輩の知り合いから「N社が海外のプロジェクトを推進するために、社員を海外に派遣し、戦力となって働いてくれる人材を探している」と教えてもらいました。早速その会社に問い合わせ、社長とお会いすることができました。その時に自分の意欲を伝え、今まで自分の経験したことも伝えたところ、このプログラムの一員として参加することができ、渡航費用・学費を会社に負担していただき、念願通りアメリカに留学することができました。

「英語は話せるようになったものの~」 模索期 前半

卒業までの2年間アメリカで勉強しながら、会社で依頼された仕事をする予定でした。しかし渡米1年後、バブル後の不況で、プロジェクトが頓挫してしまい、私の行き場がなくなってしまいました。以降の経済的サポートを受けることもできず、日本に帰国も考えました。しかし、「途中で辞めるのはもったいない」と思い、ダメモトで親に頼み込んでみました。なんとか残りの1年間の学費を支払ってもらえることになり、卒業までこぎつけることができました。
卒業後も日本に帰るかどうか迷いました。そもそも英語を習得することが目的で渡米した私は、ある程度英語を話せるようにはなったので、それで満足なはずです。しかし、旅行会社は辞めて、働くはずだった会社もなくなり、日本に帰っても「自分がやりたいこと」「自分の居場所」があるのかどうか不安でした。  
とりあえず、「しなくてはいけないこと」は働くことでした。アメリカの大学を卒業したことで、2年間の就労体験用のビザが取得できます。アメリカでの私の立ち位置(ステイタス)は日本人であること、金融系の学位を持っていることの2つでした。この2つを活かす仕事でないとアメリカではビザが取得できません。そのため、日本企業が多く進出しているニューヨークに移り、日本の銀行のニューヨーク支店で働くことにしました。お給料は高かったのですが、デスクワークと毎日同じことのルーティンワークにやりがいを感じられず、2年後、永住権がとれたタイミングで転職をすることにしました。元来旅行をするのが好きだった私は、アメリカの航空会社が日本人の客室乗務員を募集していることを知り応募、客室乗務員としてアジア、南米、北米、ヨーロッパ、オセアニア等50ヶ国以上のフライトに乗務することになりました。

「プライベートでは何があった?~」 

大学時代からつきあっていたアメリカ人男性と一緒にニューヨークに移り住みました。私のビザの期限が来るタイミングで、日本に帰るかどうかの決断をしなくてはなりませんでした。その時に一緒に住んでいた彼にプロポーズされ結婚しました。結婚生活が始まり、子供が産まれると、アメリカに永住することがリアルに思えてきました。するとなぜかとても日本が恋しくなりました。留学時代の2年間と就職してからの2年間、計4年間は一度も日本に帰っていなかったからです。その上、外国で生活をしていると、日本について語る機会が多く(皆に聞かれるからです)、自分がいかに自分の国のことを知らなかったか気づかされました。外国人の方が日本の良さを理解していることが恥ずかしくもあり、外国に住むことで、日本の良さを再認識していったからです。
子供も生まれ、アメリカで家族を作った私にとって、「今さら日本に住むことは難しいけど、日本とアメリカの行き来はしたい…」という希望もあり、仕事で日本に行ける航空会社の客室乗務員の仕事はメリットが大きかったです。
相手が外国人に限らず、結婚するということは、お互いの性格や相性だけではなく、育ってきた家庭環境、価値観をも分かち合うことだと実感しました。同国人であっても違いはあるのに、とくに外国人の場合は、人種によって文化が違うし、民族の歴史、宗教観も分かち合うことになります。彼のお父さんはユダヤ系アメリカ人で、お母さんはロシア系ポーランド人でしたので、お父さんからはユダヤ人の歴史を、お母さんから東ヨーロッパのことなどを色々と教えてもらいました。
私のような異国で生まれ育った嫁を精一杯受け入れようとしてくれた義両親には感謝しています。
残念ながら、結婚生活は10年で破綻してしまいましたが、離婚後も私を家族として扱っていただき、家族の行事や集まりなどは一緒に過ごしていました。コロナの影響を受ける前の2019年までは年に一度はアメリカに戻るようにしており、第2の家族と過ごし時間を楽しんでいました。

「私はいったい何がしたいの?」 模索期 後半

様々な国に行ける仕事、メリットがたくさんある仕事を選んだはずなのですが、それで満足感や充実感があったか?と問われると、そうではありませんでした。確かに国際線の機内では、普通に生活をしていたらお会いすることもできないような国際的な著名人や他民族の方々と接することができます。とても魅力的な職場でした。また、同僚の乗務員たちも個性豊かな人たちでしたので、一緒に仕事をするのは楽しく、毎回仕事に行くのが楽しみでした。 しかし、職場環境は苛酷でした。高度一万メートルの上空での仕事、乾燥した機内、長時間たちっぱなしの重労働、機内で起こるトラブルの対処、不規則な生活(フライト先は時間や季節もバラバラ)で体調やメンタルの管理をするのが大変でした。フライトの後、疲れて家路につくときなどは「このまま何年も続けることができるのか?」という自問自答を常にしていました。

「すべてつながった」 転換期(2010年~)

考えてみると、「いろんな世界を観たい」というかつての私の願望は、旅行先の観光スポットなどの“場所”ではなくて、そこに住む現地の人たちと触れ合うことなのではないか?そして「たくさんの人たちと関わる」ができることがメリットだったのではないか?と改めて思いました。フライト先の土地では、一人で行動をすることも多く、現地のスーパーマーケットや市場で出会った人たちとカフェで話したり、知り合った直後に家族との食事に招待されたりと、人との関わりが拡がっていくのが不思議であり、楽しみでもありました。また、働いていた航空会社では、「英語の他の言語(第2外国語)が話せること」が国際線を乗務する条件でしたので(私の場合は日本語)職場には多種多様な人種の同僚たちがいて、彼らと一緒に仕事をすることで、自分が持ち合わせていた常識や価値観、判断基準がことごとく覆される体験を日々していました。その中で、自然に人の考え方、行動の仕方にはなんらかのパターンや法則性がある、と気づき、「人間」というものに私の興味がシフトしていきました。また、息子の学校で、息子とカウンセリングを受けることになりますが(詳細はこちら)、そのことが、私の中で人間を理解するための学問(心理学)への興味が大きくなってきました。客室乗務員の仕事は休暇がとりやすく、まとまって勉強することができたので、在職中に少しずつ心理学を学んでいました。

そして決定的なきっかけとなったのは、2001年9月11日に起きた同時多発テロです。かつて銀行で一緒に仕事をしていた同僚と航空会社での同僚も犠牲になってしまいました。私は一ヶ月以上も仕事に行くこともできず、ひきこもりのような状態になってしまいました(詳細はこちら)。その状態から脱出できたのは、A社とU社の合同で行われた葬儀(メモリアル)に参加したことがきっかけでした。メモリアルでは、犠牲になった人たちのプロフィールや在りし日のエピソードがご家族や友人たちから紹介され、残されたご家族の想いを参列者たちとシェアすることができました。印象的だったのは同僚の1人が「あの飛行機に乗っていたのは私であってもおかしくなかった、でも、神は私をお選びにならなかった、ならば、いつか選ばれる日まで自分に与えられたミッション(使命)を尽くさなければいけない」と言い、それを聞いて、私も前を向く決意ができました。

この頃から私は自分のミッションについて意識し始めたような気がします。 その後、息子の大学進学、母の体調不良を機に日本に戻ることにしました。航空会社の方は5年間の休職をすることにして、その間、心理学を学んで日本でのセカンドキャリアの構築するために、日本の大学院で臨床心理学を学ぶ決意をしました。

現在は、今まで培った英語力と対人経験を活かしながら学校現場で英語と日本語で心理学の講義を行い、カウンセラーとしても働いています。また医療現場でもクリニックのカウンセラーとして働いています。他にも大学や企業の面接試験のための面接対策、面接指導をしています。心理検査(WISC)を活用した学習指導では、個人の特性を判断した上でその人に合った学習方法を提案しています。

私にとってのガーディアンは誰なのかと考える時があります。
私自身であったり、その時一番信頼できる友人だったり、たまたま会った通りすがりの人であったり…
心の拠り所となる人であれば誰もがガーディアン的な存在になり得るのです。