About us – My Experience

私のガーディアン体験

私自身のカウンセリング

自分がカウンセリングを受けるまでは「カウンセリングって精神的な問題がある人が、切羽詰まって駆け込むところ」、というイメージをもっていました。ですから、息子の学校の先生に勧められて(半ば強制的)にカウンセリングを受けることになった時は「どうして私が?」と内心反発しました。
「何にも問題がないのに、なんで?私にはカウンセリングは必要ない!!」って頑なに思っていた私は、
カウンセリングに行くのが苦痛で仕方がありませんでした。費用はかかりませんでしたので(アメリカのカウンセリングは全額保険が使えます)「お金の無駄!」とは思いませんでしたが「時間の無駄!!」と思っていました。
それでも、いやいやながらも通ううちに、凝り固まった私の思考はだんだんほぐれていたようです。(自覚はありませんでしたが)ある日、車を運転しながらフロントガラス越しにくっきりと晴れた空を眺めていると「わぁ、気持ちのいい空だなぁ~」「いいなぁ、雲も気持ちよさそう」「私もあんな風になりたい」と思った瞬間、「あれ?今の私は気持ちよくないの?」「私はすっきりしてないの?」と自問し、急に涙があふれてきて、それ以上運転することができませんでした。路肩に車を停めて、今までカウンセラーと話したこと、自分のカウンセラーに対する頑なな態度などを思い返すなど、様々な思考がぐるぐる頭の中を巡りました。そして無性にカウンセラーに会いたくなり、すぐに予約を取りカウンセリングに行きました。その時、私に起こったことは、カウンセリングで言う*「洞察」というものでした。心の中の暗雲が晴れて、すっきり青い空が見えたような瞬間でした。私に起こったこと、頭の中を巡った思考を全部カウンセラーに告げることで私のカウンセリングは終了しました。

*「洞察」とは:試行錯誤しているうちに、突然,解決手段を見いだして,その目的にかなった行動をとるような場合の心的過程を説明する概念,ゲシュタルト心理学に由来します

この体験は私の中ではとても大きなものでした。私もそうでしたが、人は自分ひとりで考えたり、悩んだりしていると、同じところをぐるぐる回っているだけで、なかなか解決には至りません。人に話そうとするためには、自分の中で話の内容をまとめて説明する必要がありますし、人から客観的にみてもらうことで、自分の考えを整理できたりします。
しかし、話す相手は誰でもいいというわけではありません。自分を批判しない人、受け入れてくれるという安心感がある人である必要があります。
私たちは自分の考えを批判されたり、自分のことをよく知らない人たちに勝手に判断されたりすることを嫌います。
その上、周りにいる家族や友人たちとはこれからもつきあっていく人たちなので、自分の弱みを見せたり、恥ずかしい部分を知られるのはとても抵抗があります。

そういう意味でカウンセラーは「近くて遠い他人」と言え、とても相談しやすい存在なのです。

生きている今、「誰かとつながっている」感覚を持つこと

私が航空会社で最初に配属されたのはニュージャージー州のニューアーク空港でした。私が勤務していた航空会社はニューヨーク近郊から日本への直行便がニューアーク空港とJFKケネディ空港の2つの空港から就航していました。ニューアーク空港はマンハッタンと隣接するニュージャージ―州にあり、こちらに住んでマンハッタンまで通勤する人たちが多かったことや、パナソニックを代表する、多数の日本企業がニュージャージー州に拠点を置き、日本便の需要があったからです。ニューアーク空港を拠点にさまざまな都市へフライトをしていました。同時多発テロで使われた飛行機は4機で、アメリカン航空2機とユナイテッド航空2機で、ユナイテッド航空の2機は、ボストン発のロスアンゼルス行の便とニューアーク発サンフランシスコ行の便でした。このニューアーク発のフライトには、私の同僚7人が乗務しており、飛行機が突っ込んだワールドトレードセンターの82階には、かつて勤務していた銀行の同僚たちが働いていました。銀行では、まだ始業前だったので、エレベーターに乗る前に警報を聞き、避難した人たちは助かり、すでに出社していてオフィスにいた人たちは避難できず全員が犠牲になってしまいました。この時間差は5分とも1分とも言われています。この事件があった後、一週間は警戒態勢がしかれていて、アメリカ国内の全空港が閉鎖され、マンハッタンへ行くための橋やトンネルも封鎖されていたので、マンハッタンへの出入りもできなくなってしまいました。一週間後に空港は再開しましたが、私はまだ飛行機に乗る心の準備ができていなかったので、一ヶ月の休みを申請し、仕事に戻ることができたのは、10月の半ばでした。
仕事を休んでいる間、TVのニュースを観ていると、日に日に増えていく犠牲者の数、結局何人の人が犠牲になったか正確な数は今もわからず、アメリカ全体が暗い重苦しい空気を覆っていました。近所で出かけても、浅黒い肌をした人、イスラム系の人たちへの差別的な迫害が始まっていました。一方、私は、航空会社の同僚たちや、かつての銀行の同僚から他の同僚たちの消息を聞いたり、近況を報告しあったりしていました。そしてこの犠牲になってしまった同僚の葬儀に参列するたびに、人生の儚さ、残された人たちの哀しみに遭って、憤り、怒り、憎しみ、不公平感、憐れみ、無力感色んな感情を経験し、何もやる気が起きませんでした。
そんな時、ニューアーク空港でアメリカン航空とユナイテッド航空の合同メモリアル(葬儀)を行う旨の招待状が届きました。約300人以上が参加していたと思われるほど大きな会場で、中央には大きなモニターで亡くなった人たちの写真が写しだされていました。その一人一人について、遺族の代表の方たちがスピーチを行いました。ニューアーク空港発の飛行機に乗っていた乗務員の一人は産休から戻ったばかりの女性でした。産休明けのフライトだったので、赤ちゃんはまだ3ヶ月でした。ご主人が赤ちゃんを抱えてステージに上がったとたんに、皆すすり泣きをしていました。奥さんのプロフィールやご主人とのエピソードなどを語った後、「皆さんも大変な想いをされていると思います。でも私たちにはするべきことがあります。私はこの子をしっかり育てていきます」と意思表明をしていらっしゃいました。もう一人はまだ働き始めて1年未満の男性の乗務員で、今回この便に乗っていた女性乗務員と同期で採用された人でした。「彼女とはニューアーク空港近郊のホテルで待機要員として待機していました。彼女と2人でホテルのレストランでコーヒーを飲んでいたら、彼女の携帯が鳴って、彼女がこのフライトに呼ばれました。もし、僕が呼ばれていたら、このフライトに乗っていたのは私でした。でも、神は彼女を選んだんです。私は選ばれなかった。ならば、いつか選ばれる日まで自分に与えられたミッション(使命)を尽くさなければいけない」と言いました。その後スピーチをしてくださったご遺族の方たちは私たちに励ましの言葉をくださいました。それを聞きながら、私たちはそこにいた隣の人たちと手をとりあい、大きな輪ができ、みんなから勇気をもらって、私も前を向く決意ができました。

一ヶ月後のフライトはロンドン行きでした。
ニューアーク発ロンドン行きの便はテロで使われた機種(B-767型)と同じ機種で、300人以上のお客様を収容できます。機内にいると、改めて、「こんな大きな飛行機でビルに突っ込んだんだ…」と身震いする思いがして、実際に離陸して、着陸するまでは生きた心地がしませんでした。多分、お客様も乗務員も似たようなことを考えていたと思います。でも、飛行機に乗っている人たちは運命共同体、ここ地球に生きている人たちもある意味そうなのでしょう。私が死について、生きている意味について真剣に考え始めたのはこのことがきっかけでした。確かに死は怖いし恐ろしい、でも、私たちは誰も死から逃れることができません。だからこそ、生きている今、「誰かとつながっている」という感覚を持ちながら日々生きることはとても心強いことではないでしょうか。